昨年、BOØWYデビュー40周年を期に、ブルーレイのボックスセットなどが発売されました。そんな流れの中で、もしや再結成!?とうっすら待ち望んでいたファンもいたのではないでしょうか。
そんなBOØWYをテーマにした『パチスロBOØWY』が9月にリリースされることとなり、にわかに巷がざわついています。往年のファンの皆さんにとっては『パチスロBOØWY』は賛否両論なのかもしれません。
今回の記事では、伝説のロックバンドと呼ばれる『BOØWY』がどうして伝説になったのかや、どれだけ人気だったか、どうして解散したのか、再結成はありえないのかなどをお伝えしたいと思います。
伝説のロックバンド『BOØWY』とは
若い世代の方は『BOØWY』と聞いてもピンと来ないと思います。そこで、まずは『BOØWY』とは、というところから始めていきたいと思います。
BOØWY(ボウイ)は、1981年に群馬県高崎市出身の氷室京介(ひむろきょうすけ)、布袋寅泰(ほていともやす)、松井恒松(まついつねまつ)を中心に東京で結成されたロックバンドです。初ライブ後に高橋まことが加入し、1982年3月に『MORAL』でレコードデビューしました。当初は6人編成でしたが、同年秋に2人が脱退し、以降は解散まで4人編成で活動しています。
BOØWY結成までのストーリー
1981年、バンドデビューをしていたものの中々芽が出ず、夢やぶれて故郷の群馬県高崎へ帰ろうとしていたボーカルの氷室京介。当時の彼女に渡されたRCサクセションのライブチケットが運命を変えます。RCサクセションから大きな刺激を受けた氷室氏は、もう一度自分がやりたい音楽をやろうと決意します。
新しいバンドを作るために連絡をとったのが、同郷のギタリストの布袋寅泰。若い頃は高崎のアマチュアバンド大会でよく競い合っていたそうです。仲が良かった訳でもないのに真っ先に声をかけたのが布袋氏でした。
そしてもう一人、やはり同郷の松井常松です。氷室氏とは小学校からの幼馴染で、アマチュアバンド時代は一緒にバンドを組んでいました。氷室氏と布袋氏がバンドを結成すると聞いて松井氏もこちらへ参加します。
BOØWYのライブを見て、ドラムを募集していることを知り、オーディションに参加したのがドラムの高橋まことです。アマチュア時代に少し有名だった高橋氏ですが、いざ音合わせの日、曲に入る前のカウントの声があまりにも大きすぎて、それにツボってしまった松井氏がベースを弾けなくなる事態になったという流れからの加入決定します。(失礼のないよう書きますが、もちろんドラムの技術は素晴らしく、解散後も数多くのバンドに参加しているので探してみてください。)
メディア露出を控え、口コミでスターダムを駆け上がる
当時はスマホもネットもなく、音源はLPと呼ばれるレコードやカセットテープのみ。にも関わらす、BOØWYはメディアへの露出や音楽雑誌などの掲載記事もかなり限定していました。
というのも、テレビに関しては、メンバーの中にテレビ嫌いがいたからだと言われています。実際、布袋寅泰は「松井恒松がテレビ嫌いだから出なかった」という旨を後に書いていますし、松井恒松本人も自らの「テレビ嫌い」を書いていました。また、当時のテレビカメラのアングルはボーカルをメインに映すのが主流だったので『4人揃ってBOØWY』という考えの彼らとしては納得がいかなかった、ということもあったのでしょうね。
しかし、テレビやメディアへの露出も極力避けていたにも関わらず、BOØWYは一気にスターダムにのし上がります。BOØWYのライブへ行って観た、BOØWYの曲を聴いたという当時の10代を中心に、その人気は口コミだけで広がって行ったのです。
自分を貫き通す、ロックなBOØWYが社会現象に
BOØWY以前は、『ロック=不良』というイメージで「ロックが好き」などと言えば怖がられたり、遠ざかられる対象でした。ところが、BOØWYが登場以降『ロック=若者のファッションや若者文化』と社会的価値観を変化させていきました。今では普通になった縦ノリのロックサウンドや髪を逆立てたヘアースタイル、ステージ衣装にジャン=ポール・ゴルチエを使った斬新なビジュアルは、当時の若者には衝撃的でとても魅力的に映ったのです。
また、メディアやマスコミに頼ったり媚びたりせずに「自分達がかっこいいと思う、やりたい音楽をやりたいようにやってみせる」という自分を貫き通すメンバーの意識は、当時の若者の意識にも大きな影響を与えました。
トップバンド、突然の解散宣言
社会現象とまでなったBOØWYは、5thアルバム『BEAT EMOTION』と6thアルバム『PSYCHOPATH』で当時のロックバンドのアルバムとしては異例のミリオンセラーを記録し、ロックで史上初のオリコン1位も獲得します。1987年「MARIONETTE」が初登場1位を記録し、名実共にトップバンドとなったのです。
しかし、日本の音楽シーンの頂点に立ったその年の12月24日渋谷公会堂にて突如解散を宣言したのです。この突然の出来事は、あまりに衝撃的で世間を驚かせました。
そして、翌年の1988年4月4日、5日の2日間東京ドームで行われた『LAST GIGS』を最後に、BOØWYは解散。この東京ドームでのLAST GIGSも2日間で9万6500枚あったチケットは、わずか10分で完売。この当時チケット購入は電話での購入だったのですが、このチケットの発売日に電話回線がパンクしたことも話題になりました。また人気の凄さは、解散の翌月にリリースされたライブ・アルバム『LAST GIGS』が異例とも言える150万枚のセールスを記録したことからも伺えます。
BOØWY 解散理由について
オフィシャルな理由として言われていたのが『音楽の方向性の違い』でした。氷室京介は、「メンバー4人でできる音楽を、全て実現してしまったため」とも語っていました。
しかし、世間で囁かれていた解散理由は
- ギャラのトラブル
- それぞれのソロ活動のため
- 氷室京介と布袋寅泰の不仲説
など諸説ありました。
高橋まことの自著伝「スネア」では、”布袋氏が当時のパートナーであった山下久美子氏のバックバンドでも活動するようになったこと””バックバンドで氷室氏以外のメンバーも参加する事が決まったこと””それを高橋氏が氷室氏に伝えたところ「解散」と切り出されたこと”が記されていました。
筆者の見解
世間では解散理由についてあれやこれや言われますが、筆者が思うに全部をひっくるめて”方向性の違い”だったのだろうなと思うのです。松井常松が後に語った「友達として一緒にいたいけど、それと音楽は別にしなくてはという分かれ道だった」が物語っているのではないでしょうか。綺麗事ではなく、各々が進もうとしている未来が違っているのだからと。
氷室京介が12月24日の渋谷公会堂で放った「解散」ではなく「それぞれの道へ行く」それ以上でもそれ未満でもないこれが理由なんだと筆者は思うのです。きっと、今後もBOØWYのように音楽的に尊敬する者同士が真剣にぶつかり合い、鮮烈に散った伝説的バンドは二度と現れないでしょうね。
最後に
BOØWYは、デビューから解散までの6年間、その生き様が伝説的なロックバンドです。まだBOØWYを見たことや聞いたことがない方も、是非一度ライブ映像を見て欲しいと思います。BOØWY 曲はどれをとっても最高ですが、筆者のおすすめは、楽曲から『Marionette-マリオネット-』『CLOUDY HEART』でしょうか。『LAST GIGS』の映像からは『ONLY YOU』で氷室氏が布袋氏を指さす、胸きゅんシーン。動の布袋氏と静の松井氏のコントラスなどを是非見て頂きたいですね。